醤油(その2)
羊肉としょうゆ
雁屋〜醤油で思い出したんだけど、いまから20年ぐらい前にオーストラリアのボーダータウンで、僕の友達のエカードがやっている羊の食肉処理場を見学したことがあってね。で、羊の処理行程を見たあとで、羊を食べてみるかって言われたから、それじゃあ刺身にしてくれって言ったんだ。そうしたら、エカードがびっくりしちゃってさ。田舎町で人口は2、3千人しかいない町なのに、あわてて町のスーパーに行ってしょうゆを買ってきたんだよ。
小哲〜エッ、ボーダータウンでしょうゆを売ってたの!?あんなオーストラリアの田舎町で。僕も前に行ったことがあるけど、あそこは牧場と羊の食肉処理場で成り立っている町だから、住民のほとんどが処理場で働いているっていってたよ。
雁屋〜そう。それで、羊の肉のおろしたのを刺身にして食わしてくれたの。
小哲〜刺身で食いたいって言ったら、ちゃんと日本式の刺身で食べさせてくれたんだ。
雁屋〜そうそう。
小哲〜あんな小さな町で、信じられないな。僕はさ、刺身っていうから、てっきりタルタルステーキみたいな、そういうのかと思った。
雁屋〜違う、違う。日本の刺身を食わせろって言ったんだよ。そうしたらあんな田舎町なのにスーパーでちゃんと醤油を買ってきたもの。
小哲〜言うほうも、言うほうだけど、ちゃんとしょうゆを買ってきたってのも、それはすごいことですよ。
雁屋〜そう、すごいことだよ。だけど、もう20年ぐらい前の話だよ。僕がオーストラリアに行ったばっかりの頃だもの。そうそう、エカードの兄さん、エリックに「ここで羊の刺身を食ったの、誰かいるかい」って聞いたら、「いない、いない、お前だけだ」って。白衣を着て処理したての羊を刺身で食いたいって言ったんだから。でも、わざわざ醤油を買いに行ったからね。
小哲〜で、味はどうだったの、美味しかった?
雁屋〜いや、うまいうまい。ラムの刺身は最高だよ。
小哲〜そうかあ。だけどラムを焼いたときは、あの匂いと醤油は合わないと思うんだよね、僕は。味がぶつかっちゃう。
雁屋〜いやあ、うちでいちばん人気のあるバーベキューの材料はラムなんだよ。ラムを酒と醤油に一晩漬けておくの。それを翌日焼くのね。これが美味しいんだよ。ものすごく美味しい。それを食わせると日本から来たやつは、美味しい、美味しいって何本も食うよ。ラムのラックのところがあるだろう、脇腹のところ、骨をつけたままスライスしたやつね。それをやると日本人も何本でも食うよ。オーストラリア人も大好き。それから、ポークのスペアリブも醤油で味つけるとおいしいよ。
小哲〜ポークのスペアリブはいいんだよ、豚はどうにでもできるから。だけど、ラムはどうもしょうゆとは合わないな。
雁屋〜いやいや、やってごらん。うちではすごく評判いいよ。
小哲〜じつは、日本でなぜラムが流行らないか、前に雑誌に書いたことがあるんだ。何故好きにならないかっていうと、みんな醤油で食っちゃうから、ラムの味と醤油の味がぶつかる。塩とスパイスで食うとうまい。
雁屋〜それは変なラムを食ってるからだろう。いいラムだったら刺身で醤油でおいしいしさ。醤油でマリネにしておいたラムはバーベキューで焼いたら最高にうまいよ。
小哲〜そうかなぁ、じゃあ今度試してみるか。日本のスーパー、昔からそうだけど、スーパーの売り場でいつも売れ残っているのがマトンを醤油に浸けたやつなんだよ。
雁屋〜あれはまずいよなぁ。
小哲〜そうでしょ。みんなあれを食べてるから、羊は臭くてまずいもんだと思ってる。
雁屋〜おまけにあれ、甘くしてるだろう。それにたまねぎに混ぜちゃって。韓国のプルコギ、あれもまずいじゃない。あれみたいな味がするんだよ。ああいう形にするからおいしくないんであって、酒と醤油でひと晩浸けておくと美味しいよ。
小哲〜うん、日本では最近、ジンギスカンなんてのが流行ってはいるんだけどね。僕はどうも、食べる気がしない。
フランス料理としょうゆと日本人シェフ
雁屋〜昔は日本でフランス料理というと、ホテルのレストランしかなかったんだけど、町場で本格的なフランス料理店ができたのは、「シェイノ」の井上さんみたいな人たちが、70年代にフランスで修業して日本に帰ってきてからなんだよ。だけど、あの世代の人たちは醤油を使うことを拒否してたんだよね、面白いことに。とにかく醤油の味からいかに離れるかということが最重要課題だったんだよ。それが、最近のフランス料理のシェフたちは気軽に醤油を使うんだよな。醤油は完全に彼らの必須要件になってる。フランス料理の人たちが醤油をポタポタたらすんだから。今から思えば、その当時のフランス料理の日本人シェフたちっていうのは、固定観念にとらわれていたんだな。
小哲〜でもその気持ちはよくわかるね。彼らは一生懸命フランス人になろうとしていたんだと思う。
雁屋〜そうなんだろうね。そういう意味では何かにとらわれた心では新しいものは作れないな。だから、フランス人のほうがフランス料理に醤油を取り込んで美味しいものを作っちゃうみたいなね。ロビュションなんて平気で使っちゃうしさ、たいしたもんだよ。
小哲〜本家だから自信があるし、どうやろうと、自分が何をつくろうとフランス人がやっていればフランス料理だからね。日本人のシェフはフランス料理じゃないって言われるのがなによりも怖い。だから、しょうゆなんか使ったらお里が知れちゃうってわけでしょ。それで、みんなわざわざフランスから食材を取り寄せている。フランス料理らしくするために。
雁屋〜そうなんだよな。しかし、何てったって醤油のうまさだよ。これは揺ぎのないものですよ。
小哲〜そうか、じゃあ日本のフランス料理にとって、醤油はいわば逆輸入であって、ようやく最近になって醤油という呪縛から解き放たれたってわけだ。難しいよね、醤油って日本人の心みたいなもんだから。
つづく...
