寿司(その5)
素手で握るという世界にも稀な料理
雁屋〜江戸前の握り寿司っていうのは、料理の中で極端に特殊な料理なんだよ。というのは、素手で握ったものを人に食べさせる。そんな料理はほかにないんだよ。手で直接食べものに触るって、例えば、インドあたりで手でカレーを食べたりするけれども、調理人が素手で料理して、それをそのまま食わせるなんて、そんなものないわけだよ。
小哲〜サンドイッチなんか、手でつくるけど、寿司とは意味合いが違うしね。
雁屋〜だからね、お寿司屋さんとお客さんの間には人間的な信頼関係がなかったら成り立たないと思うんだよね。だから、嫌な寿司屋っていうのがあって、そんなやつの握った寿司は絶対食いたくないっていうのもあるわけじゃない。
小哲〜面白いのは、最近はおにぎりなんかみんな薄いゴム手袋をはめて握るんだよね。寿司屋でも持ち帰り寿司なんかだと、そういうのあるんじゃないかな。
雁屋〜そうだよね、おにぎりでさえそうなんだから。だから、握り寿司というのは極めて稀な料理で、世界にあんな料理のしかたはない。よく、外国人のわけのわからないやつらが、寿司は料理じゃない、なんてばかを言うわけだよ。あるいは、刺身は料理じゃないとか。そういうとんでもない大馬鹿さんがいるわけだけど、寿司ほど握る人によって味の違うものはない。
小哲〜うん、まったくそうだよね。
雁屋〜それから、握るときの姿かたちの美しさがこれほど味に影響するものはない。寿司の技術教科書を見ると、二手返しとか本手返しとか、いろんなやり方があるんだよね。あれは見てるとすごいなあと思うね。日本人てなんて器用なんだって。
小哲〜ずいぶん前だけど、「美味しんぼ」のテレビ特番で、美家古の先代の親方にやってもらったことがあるんだよ。五手で握るとか、三手で握るとか、で、究極は一手で握る名人が昔はいたとか。
雁屋〜大阪につかみ寿司っていうのがあるんだよ、黒門市場のところに。何だろうと思ったら、ごはんをつかんで、そこにパッと載っけるからつかみ寿司って言うんですって。握り寿司と変わらないんだけどね。
小哲〜形は、どんなふうになるの?
雁屋〜同じ形だよ。でも、つかみ寿司っていうんだよ。ごはんをつかむからって。つかみ寿司っていうのはあそこだけだね。そんなに高級なお店じゃなくて庶民的なお客さんがどんどん入ってくるようなところなんだけど、名前がおもしろかったね、つかみ寿司って、聞いたことがなかった。
小哲〜握り寿司って、素人がやるとどうしてもご飯つぶが手についちゃうでしょ。あれって、手につかない方法がちゃんとあるんだよね。
雁屋〜そうだよ、なぜプロは手がごはん粒だらけにならないのか。2つある。1つは、手の温度と寿司めしの温度を同じにする。だから、寿司屋に行くとごはんの温度が下がらないようにおひつに入れ、店によってはこもをかぶせているところもあるな。もう1つは、彼らは握る前に手に酢をちょっとつけてパンと叩くじゃない。あれは冗談でやってるんじゃないのね。パンと叩くと、その瞬間に手に水の膜ができちゃうんだって。それで握るから手につかないんだってさ。お酢をひとすくい手にとってパンとやる。
小哲〜なるほどね。素人がやると、手のひらに酢がたくさんついてごはんがベヂャベチャで水っぽくなっちゃうんだよ。パンとやるとちょうどよくなるんだ。
雁屋〜酢をひとすくいとってパンとやると、その瞬間に手の表面に水の膜ができて。
小哲〜そうか、いいこと聞いたな。ところで、それは誰から聞いた話?
雁屋〜これはシドニーの職人から聞いた。
小哲〜え!日本じゃなくて、シドニーで聞いたの?ああ、例の寿司屋さんね。最近はシドニーも開けたもんだ。でも、それ覚えておこう。だけどさ、握り寿司ってのはやっぱり家で作るもんじゃないね。
雁屋〜あのね、寿司、天ぷら、そば、うなぎ、これは日本食中でも人気メニューのベスト4だ。しかし、これこそ職人料理で、この4つは絶対に家で作るのは無理。職人の技術と勘が不可欠なんだ。
小哲〜昔、うちで親父が寿司をつくったじゃない。あのときは、嬉しかったけど、いわゆる店で食べる寿司とはまるで違ってたもんね。
雁屋〜ごはんが大きくてなあ。
小哲〜あとねえ、酢の加減が弱いと、水っぽいっていうか、味にしまりがないんだね。
雁屋〜多いとすっぱいし。それから、砂糖の按配も難しいしな。親父はひどかったよ、ご飯だけ先に握って、あとからその上に刺身を載っけてたぞ。
小哲〜子どものときはあれでも楽しかったけどさ。でもひとつ違うなと思ったのは、酢の微妙な加減で、魚の味が浮いてしまって、生臭く感じちゃうんだな。
雁屋〜だから握り方もそうだけど、そのへんの加減が素人には難しい。
小哲〜ということは、やっぱり職人料理には素人は手を出しちゃいけないってことだ。皮肉なことに、うちの親父が身をもってわが子に教えてくれたってわけだ
雁屋〜しかし、あれはあれで、楽しかった。
小哲〜そう、子供にとっては最高のイベントだった。・・・・ということで、美味しい寿司が食べたくなったところで、そろそろ終わりにしたいと思います。
(了)
