美味しんぼへの道のり(2)
「料理が好きな家庭婦人求む」
雁屋−岸さんは三十二歳のときに主婦の友社の「料理が好きな家庭婦人求む」というのに応募して、料理記者としてスタートしたわけですよね。料理記者は岸さんが草分けといっていいんですか?
岸−いえ、私以前にも主婦の友社にはいたわよ。料理記者なんていうのは、記者は記者でも「三輪車」とか「鍋釜記者」っていわれたけどね。
雁屋−そもそも料理記者という職業は、どうして生まれたんですかね?
岸−昭和三十年代に日本の経済が復興してきたことで、みんなが料理に関心を持ち始めたのね。だから、料理ショーもやったし、料理教室は夜学もやるぐらい混んでいたんですよ。田村魚菜さんなんかが代表的ね。それが、四十年代中頃になったら、だんだんなくなって、料理教室もサロン風になって、できたものをみんなでおいしく食べるというかたちに変わってきた。
雁屋−魚菜学園には、うちの母も行ってましたよ。
岸−ただあそこは、東横線沿線の奥様方に、旦那様の羽織の着せ方まで指導しているっていうので、婦人記者連中は怒ってた。家庭の主婦に料亭のサービスの仕方を教えてるって。
雁屋−あの頃は料理の本はあったんですか。
岸−ありましたよ。私は女学校の卒業祝いに、NHKの『きょうの料理』をいただきましたよ。あの頃はラジオで、テレビじゃなかったの。
雁屋−ああ、ラジオでやってたんだ。
岸−テレビは昭和三十年ぐらいかな。
雁屋−岸さんが扱う料理は家庭向けで、料理人向けではないですよね。
岸−はじめが主婦の友社だもの。主婦にわかりやすいやり方。そのもっと前、私が入った女子栄養学園を始めた香川綾さんがなさったのは、料理を計量化することね。うちの母も言っていたけど、大正時代の料理は「ほどほどにお野菜が柔かくなったらお醤油をたらたらとたらして」ぐらいのことしかなかった。香川綾先生は女医さんだから、そうした曖昧な要素を東大の実験室で全部数値化した。ストップウオッチで時間を測ったり、フラスコで調味料の量を計ったりして。それが「栄養と料理」という雑誌の元になったのね。
雁屋−食品成分分析表を出しているのが、女子栄養大学ですよね。
岸−もとは科学技術庁なんです。いまはあちこちで出しているけど。
雁屋−ぼくはその第一版を見たけど、貧相なものですね。それと、今と比べると、野菜の栄養価がすごく違うのね。ものによってはビタミンが四分の一とか五分の一になってしまっている。
岸−トマトなんかはほんとに違ってます。
雁屋−ああいうのは怖くなっちゃいますね。僕らが子どもの頃食べたトマトは、ほんとにうまかったんだけど。
岸−いまはサンドイッチに入れて形が崩れないトマトとか、便利な方になってるのよ。
雁屋−そういうことなのか、味じゃないんだ。
入社試験は献立作成だった
岸−そうして昭和三十年代に料理学校がさかんになって、私たちが採用されたわけよ。一次試験には三百五十人ぐらい来た、といわれてましたね。主婦の友社の講堂が一杯だったから。その中から七人採用になった。試験は献立作成でしたね。サラリーマン家庭の献立と、労働者家庭の献立。肉体労働の人っていうから、私は大工さんにしたんだけど。三つ目が子だくさん家庭の献立。三つの献立を午前中の二時間か三時間で立てて、朝昼晩のつくり方をざっと書くという試験でした。みんな参考書とかをいっぱい持ってきてたけど、私は鉛筆と消しゴムしか持っていかないで。
雁屋−それが入社試験?
岸−ほかに面接。何がよかったかといったら、岸さんの料理は細やかだったと後でいわれました。たとえば天盛りに、木の芽で香りを添えるとか、針しょうがを乗せるとかね。嘘ばっかり書いたんだけど。大体、昭和三十年に主婦の友社に入ったとき、私は妊娠七か月だったんだから。受ける方も受ける方、取る方も取る方でね。東大生が三人ぐらいいたかな。そうした連中と、私のような料理好きな家庭婦人のグループがいたんですけど、そのとき、みんな四月一日入社だから「私も四月から来ます」って言ったら「いえ、あななはお産をしてから来てください」って。
雁屋−ああ、偉いなあ。ずいぶん余裕のある立派な会社ですねえ。
岸−そう、主婦の友はすごいと思う。それで私は五月にお産をして、八月一日にほかの途中採用の人たちと三人か四人で入った。あわてて以前使ってたお手伝いさんを戻したんだけど、一週間ぐらいいなかったのね。会社に入ったばっかりってお使いさんが多いじゃない。先生のところに原稿を貰いに行くとき、麹町で下りて窓の外から見ると、留守番してた小学校四年の娘がおむつをあてられないで悩んでたのよね。その話をしたら、あのとき、私はおむつが当てられないで誰かいないかと思ってたって。涙が出るような話でしたよ。
雁屋−ご主人は全然反対じゃなかったんですね。
岸−だって、食べていかれない。子どもが三人いて、お腹にもいたでしょう。当時、私の初任給が一万一千円だったかな。大学出の男性は一万円だったけど、家庭婦人は一万一千円。経験給込みですよね、三十歳とかだから。あとの昇給は男の子の方がよかったけどね。実践してる人でないといい原稿は書けない、というのが主婦の友社の精神だった。
雁屋−でも、現実に書けるかどうかわからないじゃないですか。
岸−それは作文の実地試験があったもの。月曜日から土曜日まで六日間、朝会社に行くと、今日はこれをしてくださいって言われる。創業者の石川武美さんのお話をまとめるとか、写真を渡されてキャプションを書くとかね。縁側で子どもが勉強をしている写真には「縁側も使い方次第で子どもの勉強部屋に」みたいにまとめる。もっと面白いのは、今日は取材に行ってくださいと言われたとき。あなたは学校給食へ、あなたは会社の給食へ、それで私は子だくさんの家にって言われたから、台湾から引き揚げてきて六人の子どもがいたおばの家に行った。日当、電車賃はくれるのよ。でも、それで一人か二人落とされてるの。何が悪かったのかというと、「学校給食、どこに行ったらいいですか、どうしたらいいですか」って聞いてきたというのね。
雁屋−取材力がなかった。
岸−そんなのは自分で考えて行きなさいっていうことでしょうね。最後は自分で料理をつくって原稿を書きました。
雁屋−それが試験?
岸−試験よ。六日間の試験がそれなの。
雁屋−あっ、六日間の試験! すごい試験ですね。「子だくさんの家に行ってこい」も全部試験なんだ。
岸−でしょう。朝、何もわからないで会社に行く。まず料理をつくるっていうときには、料理をつくって献立を午前中に出す。買い物は先輩の人がお財布を持っていて、神保町の交差点のところに富士屋ってスーパーがいまでもありますけど、そこで材料を買って来てくれる。私はたとえば旦那がお客さんを連れてきたというような設定を考えると、ツナ缶と何かをぽとんぽとん落とす料理とかを考えて、原稿に書いて出す、というような試験だった。献立の筆記試験をパスした十人ぐらいに実地試験。それが月曜から土曜までの六日間。たしか土曜日は半ドンだから、午前中に料理をつくって、原稿も出すんだったと思う。
雁屋−それほど念入りにやるからには、当時、よほど仕事をしたい人がいたんですね。
岸−二人いましたね、軍人の妻というのが。一人は学校の先生だった。一人だけ、家政学院かどこかの新卒がまぎれ込んでいたけど。あとはみんな家庭の主婦でした。
雁屋−すごい競争率ですよね。しかし、よく主婦がそうやって雑誌の記者になろうと思いましたね。
岸−まあね、偶然ね。水商売と泥棒だけはやめようねって主人と話してたんだから。
雁屋−岸さんは学校が栄養学園だから、料理の方に行くのは自然の流れだったんですね。
岸−私は料理を家でつくってればいいと思ったのよ。試験のときの募集が「料理の好きな家庭婦人」だから。でも入ったら、毎日おいでっていうのでびっくりした。「あら、毎日? どうしよう」って思って、お手伝いさんを呼び戻したわけ。
