美味しんぼへのみちのり(3)
親父の食いしんぼは筋金入り
岸−ところで、お父様が料理好きっていうのは、中国でいい生活してらしたから?
雁屋−ただ、うちの親父は極貧の出なんですよ。
岸−どこのご出身?
雁屋−埼玉県です。このあいだ、父親の妹にあたる叔母がかなり高齢なんですけど健在なので、親父のことを聞きにいったんです。そうしたら、埼玉県の花園村の極貧の出で、親父の父親、僕の祖父というのは、農家なんだけど田地田畑は持ってなくて、養蚕の技術を教えて歩いたり、あるいは繭の取引なんかをしていたらしい。だから、とても貧しかった。うちの父は高等小学校の頃から河原で砂利を分ける仕事をして、一日五厘とか貰っていたというんですよ。ところが村の篤志家が、この子は頭がいいから上の学校に行かせてやろうってお金を出してくれた。それで東京に出てきて、親戚の肉問屋で働きながら大学に通った。
岸−でも、隣の群馬が繭の産地だし、栃木は結城紬とか織物の産地だから、そのへんを歩いていたということは、お祖父様はかなり知恵者だったんじゃないですか。
雁屋−そこらはよくわからないけど。ただ父は、肉屋で働きながら大学に通ったから、肉のことはすごく詳しい。それからおばの話では、子どもの頃、河原で働いて貰ったお金を持って帰ると、祖母は「これはお前が働いたお金なんだからお前が使っていいよ」って言ったら、父は「それなら、僕はずっとあの店の餅菓子を食べたいと思っていた。それを買っていいか」と言って、餅菓子を買って食べた。それを見て、おばはなんと大胆なお金の使い方をするんだろうと思ったと言うんですよ。小学校の何年生か知らないけど、その頃から実は父親もすごい食いしんぼ、食に興味があったんですね。
岸−大学は?
雁屋−法政大学。大学を卒業してから中国に渡って、中国の石炭会社で働いた。だから向こうではいい生活をしていたんですよ。
岸−でしょうね。
雁屋−向こうのうまいものをさんざん食っていたから、僕たちはよく引き揚げて来てから、「ああ、あれを食べさせたかった、カオヤオツーはうまかった」とかいう話を聞かされました。チャオズとかローピンとかは家でつくるんです。これがおいしくてねえ。そういう親父に育てられたから、僕も食いものにやたらと執着するようになった。
牡蠣の養殖を考案した父の教え
岸−そういう点では、私のところも父が料理にうるさかった。戦前のお嬢さんたちは、女学校を卒業したら、まず、お茶とお花、裁縫。それから、料理をやってお嫁に行くというのが、良妻賢母の時代の教育だったんです。いいお家にとついでいい奥さんになって子どもを持つのがよし、とされてた。そういう時代に、うちの父は「洗濯、掃除、裁縫は人に任せてもいい。だけど、料理は命にかかわるものだから、人任せにはできないし、また、人に指図ができないといけない」と言ってましたね。
雁屋−へえー。料理は人任せにしちゃいけないというのは立派な考えですね。
岸−そうですね。父の宮城新昌は沖縄の大宜味村の出身なんですが、いろいろあってアメリカで暮らしていた。でも留学なんてかっこいいもんじゃない。沖縄農林水産学校を出て、鹿児島高等農林、いわゆる専門学校を落ちてふらふらしてたら、学校の先生たちからハワイに行かないかと誘われて、沖縄県のハワイ移民のアシスタントでついて行ったんです。その後ハワイでみんなと別れて、自分はアメリカの西海岸−へ行った。一九〇八年にはハウスボーイをやりながらワシントン園芸学校を卒業し、ワシントン州立大学水産学部のキンケード博士の助手として、牡蠣の勉強をしたのね。父が二十二、三歳の頃、アメリカの東海岸−の牡蠣は乱獲でほとんど食べ尽されちゃってたらしい。
雁屋−へえー、だって養殖じゃなかったんですか?
岸−あの頃は養殖なんてないの。その養殖を考案したのがうちの父なんです。ヨーロッパ流の、水田みたいにやる地まき式はありましたよ。父がやったのは垂下式といって、海底で育てた牡蠣を海中に吊るして育てる方法。海を立体的に使うから、牡蠣の生育も早く、生産量が飛躍的に伸びたといわれてるのね。
雁屋−それはすごい。垂下式があったから日本の牡蠣の養殖って栄えたんですよ。
岸−そうですよ。そして、貧困のどん底にあった東北地方を救った側面もある。
雁屋−フランスでやる地まき式はだめなんですよね。
岸−あれはだめなの、泥に埋もれて。それで、壊滅状態のアメリカ東海の牡蠣を大陸横断させたんじゃ死んじゃうというので、日本の種牡蠣をアメリカに輸出しようということになった。今では、アメリカはじめオーストラリアやフランスにも日本の種牡蠣が輸出されて根付いていて、五〇%を占めているって。とくに一九六〇年代にフランスの牡蠣養殖業が絶滅に瀕した時、日本産の種牡蠣で救われたという話があります。父はそんな経歴の人だから、料理もできたし。
雁屋−それはうるさいでしょうね。牡蠣を養殖しようというのなら。
岸−このあいだ、シアトルとバンクーバー島のコレステ島というところへ行ったの。バンクーバーから船で二時間ぐらいのバンクーバー島へ行って、そこのナナイモというところから水上飛行機に乗って四十分ぐらい行く。コレステ島のオイスターマン、いわゆる牡蠣の漁師が五十軒ぐらいあるという島に行ったら、そこに「一九○五年、ジョージ・ミヤギ、なんとかかんとか」って書いた碑が残っていた。垂下式というのは、筏を組んでやるんですけど、その方式がそのままいまでも行われているので、涙が出ちゃった。うわぁ、こんなところまで父は来たのかって。で、そこの種はもちろん日本の真牡蠣だというのね。
雁屋−シドニーの市場にあるオーシャンオイスターというのは、日本から来る船の底についてきた。ホタテ貝に種をつけるでしょう。
岸−それを考えたの。父の時代にはまだホタテを使わないで、牡蠣殻だった。初めに生の牡蠣を持っていったら、アメリカまで二週間ぐらいかかったから身は死んじゃったけど、種は生きていた。で、種牡蠣を送ろうということになった。でも長い航海だからそのまま送るとくたびれる。そこで潮の満ち引きを利用して太陽にあてたりして鍛練する。海苔なんかも同じことするんだけど、そんな方法まで考えた。それが一九○五年以前に始まってるのね。
雁屋−それは伊勢の佐藤研究所より古いんだ。
岸−古いですよ。あなたの漫画にあったね。佐藤さんのところの牡蠣は水で洗う。あれがいいの。
雁屋−なるほど。そういう背景があるから、どうしても食べものには思い入れがあるんですね。
